【会津東山温泉 向瀧】公式HP 会津藩の歴史的温泉宿 高松宮様とスキー倶楽部

向瀧看板

向瀧の歴史 昭和時代

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「高松宮様とスキー倶楽部」
高松宮様とスキー倶楽部
こちらは、スキー倶楽部のメンバーとの写真です。一番左の男性は、全日本スキー連盟会長小川勝次さんで、高松宮様には必ず随行しておられた方です。この頃のスキー靴は、ひもで縛るタイプです。
一番右が平田シナです。

高松宮殿下のスキー随行記より
昭和48年01月16日
 九時九分上野駅御発、随行小川、中川新。白河駅から福島県スキー連盟副会長高橋一郎、同県教育次長内田茂がお弁当持参で乗り込む。十三時十分猪苗代駅御着、福島県知事木村守江、猪苗代町長山本秀雄、全日本学生スキー連盟会長伴素彦、福島県スキー連盟会長小林七之助らお出迎えする。
 猪苗代町役場で御少憩の後、十四時二十五分猪苗代中学校校庭にお着きになり、第四十六回全日本学生スキー選手権大会の開会式に御臨席された。快晴無風で暖かく、霊峰磐梯山(一八一九メートル)が青空を突き刺すように聳えている。その上、雪不足の今年ではあるが、校庭は白雪が美しく均されており、観衆も多かった。参加校は百十校、参加選手は九百九十四人という充実振りである。殿下から次のお言葉をいただく。
 
私は先ず、例年の大会とちがい積雪に不安はなく、来年は国体を迎える施設を使用しての此の大会を祝福いたします。
日本のスキー界は、昨年は待望のオリンピックで空前の好成績をあげることができ、スキー発祥六十年にしてはじめて迎えた良い年でした。御同慶の至りであります。皆さんには先輩が作ったこの偉業を保持することを念願として、精進をつづけておられることと確信いたしますが、日本のスキーの実力は学生選手にあるということを頭に入れ、明日からの競技に出場してくださるよう祈ります。
今年のシーズン幕開けの競技会での皆さんの活躍に期待し、併せてそれを見ることを楽しみにしています。
最後に一言いたしますが、猪苗代スキー場は今まで一般のスキー場として親しまれてきました。今年はこの学生大会、そして明年は国体と、競技場としての施設も充実されたことは極めて意義あることで、大きな前進だと思います。この上はこの土地から優秀な選手が数多く育つことを待望する次第であります。
 十五時三十分猪苗代中学校御発、途中、強清水で御休憩の後、十六時四十分会津若松市東山温泉向瀧(社長平田昇)にお着きになった。庭には雪があった。
 十七時三十分から木村知事主催の殿下御歓迎夕食会があり、学生スキー連盟から伴会長、田村義輝、宮川恒夫両副会長、逸見三郎理事長、高瀬喜左右衛門会津若松市長、陸自第六特科連隊長田口初幸、高橋一郎らも出席した。
福島県会津若松市東山温泉向瀧御宿泊
昭和48年01月17日
 九時向瀧御発、今日も晴天である。十時十分猪苗代スキー場の距離競技会場にお着きになり、三十キロ競技の二部、一部選手のスタートを御覧になり、次いで一周十五キロコースの最高地点までおいでになって、力走する選手を激励された。お帰りに伊黒正次、江遠要甫の説明により、七十メートルに改造されたジャンプ台を御視察され、ヴィライナワシロで御昼食 された。
 十三時二十分ヴィラ御発で奥の沼尻温泉田村屋(渡部恒昭)にお着きになり、さっそくスキー服にお喜換えになった。御案内は松山六郎と田村屋主人渡部、それに渡部勝美、佐藤武、女性の秋田和美、佐藤貴美子が随行した。殿下の今年の初滑りである。第1リフト三百メートル、第二リフト五百メートルとお登りになり、さらに林間コースを1時間近くもお歩きになって、白糸の滝の見晴らし台までお登りになった。安達太良方向の山々を御展望の上、そこから滑降をお楽しみになる。積雪は一メートル以上もあり、晴天ではあるが八百四十メートルの標高をもつ沼尻の雪質は良く、先ず申し分のない初滑りであった。
 この沼尻スキー場は大正十年、小川ら早大スキー部が開発したスキー場で、小川も五十二年振りにこのスキー場に立ち、感無量であった。現当主恒昭は当時の主人恒次郎の孫に当たるという。
 十六時近い頃、まだ明るかったが安達太良山あたりから大きな満月が登りはじめ、珍しい光景を眺める。空気が清浄なせいであろうか。
 十六時二十分宿にお入りになった。田村屋も堂々たるホテルに改築されたが、一部なお五十年前の古びた建物が残っていた。御夕食は県秘書課長磯貝博、保健体育課長大木昭一郎、山本猪苗代町長、佐藤光信同議長、松山らと御会食され、御夕食後、麻雀でお楽しみになった。
福島県猪苗代町沼尻温泉田村屋御宿泊

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