「つまらないものですが」
平田裕一の顔です
平田裕一
 今年も、あと僅かとなってしまいました。師走は、江戸時代からのしきたりである「お歳暮」の時期で、大晦日までそわそわしてしまうものです。
 私が小学生の頃、コタツに入りながら、ミカンを頬張っていると、いろいろな大人たちが、年末の挨拶にやってきました。そして、お歳暮の品を差し出すとき、「つまらないものですが」と、言葉を添えるのでした。私の兄弟(男三人だからふざけ出すと、タチが悪い?)は、それまで夢中になっていたテレビを忘れ、ミカンを頬張る手を止め、ニコニコしながら「つまらないもの」と言っている大人の顔を、不思議そうに眺めました。そして、驚いたかのように、「えっ、つまらないものだって!」と声を張り上げるのです。困惑する大人の反応を見ることが、私の、ささやかな師走の楽しみ方の一つでした。
 今考えれば、大変に失礼なことを言っていたもので、深く反省し、皆様にお詫び申し上げます。が、しかし、せっかく頂けるものならば、おいしいものや、すぐに利用できるものをと、思ってしまうのが、人間の正直な気持ちでしょう。その頃の私は、謙譲の美徳などというものを、まったく理解出来ませんでした。子供にとって、必要以上にへりくだる、大人の言葉遣いは、気持ちがストレートに伝わらず、不可解で納得できない世界なのです。
 年号も平成に変わり、来年で十年を迎えようとしています。あの頃、コタツの中でよく聞いた「つまらないものですが」は、なかなか聞くことが、出来なくなってきたような気がします。しかし、まったく無くなってしまったわけではありません。「少しばかりですが、心ばかりですが」という言葉で、残っていることも確かです。謙譲の美徳は、おつきあいの中で、今も欠かせない潤滑油なのです。
 最近では、「どこそこで評判の」とか、「食べてみて美味しかったので」といったような素直な形容詞が、贈り物を差し出す時に添えられることが、増えていると思います。自分の用意してきた品に付加価値の言葉を添える、自分の気持ちを素直に表現する日本語に、変わってきています。さらに驚くべきことは、受取人の喜びの表現です。かつては、頂いた贈り物をその場で開けてみることは、大変失礼なことでした。しかし、今は目の前で開けて、喜びを表現する、一緒に食べてみるなど、信じられない光景が展開しています。そこにも、自分の気持ちを正直に表現し、喜びを分かち合う、日本人が存在しているのです。
 年の瀬も迫ってくると、今年の流行語大賞のような企画が、テレビや新聞を飾ります。ここ数年、若い女の子、いわゆる「コギャル言葉」ばかり、悪い例で取り上げられますが、言葉そのものが、知らない間に、変化しているのです。この変化を的確に捉えて、日本人だからこそ、限定で使える謙譲語を、もう少し大切にしたいものです。そして、おかしくない程度に、「お歳暮」と一緒に、添えてみてはいかがでしょうか?その独特な言葉の美学を、使いこなす粋な日本人を、そっと、体験してみましょう。
 つまらない文章ですが、来年も宜しくお願いいたします。
福島民報新聞「民報サロン」1997年12月22日掲載
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1996年・旅行者心理学
1997年・まだ計算中です| 昔からそうだから| つまらないものですが
1998年・新・路地裏紀行| あこがれ| 今、ちょっと忙しくて
1998年・あったか電子メール
2000年・精神ダイエット
2008年・真冬の庭に花を咲かせる